2019年8月15日木曜日

V-2ロケット開発製造に投入された奴隷労働者達, Slave workers put into V-2 rocket development and production

V-2ロケット開発製造に投入された奴隷労働者達, Slave workers put into V-2 rocket development and production





第2次世界大戦が終結した時、ナチスドイツが開発したV-2ロケット・弾道ミサイル(A-4ロケット)は、米国とソ連の20年~30年先を行っていた世界最先端のロケット技術であった。しかしながらその実態は、強制収容所の囚人達を奴隷労働させて製造を行っており、文字通り「屍を超えて」開発と製造がなされていた。


リアル地下帝国、フォンブラウンの運営のハイパーブラック労働現場の実態について、過酷なV-2ロケットの製造現場について、ナチスドイツの航空兵器、ロケット兵器、化学兵器、生物兵器等の科学技術者を米国に移住させるプロジェクトを描いた、アニー・ジェイコブセン (著)「ナチ科学者を獲得せよ! アメリカ極秘国家プロジェクト ペーパークリップ作戦」から抜粋して紹介する。

V-2ロケットは、世界初の本格的な弾道ミサイルとして、ヨーロッパ各国に使用され、数千人の死者が出た。(例えばイギリスでは合計2754人)しかしV-2製造の強制労働により、死亡した奴隷労働者の死者数は1万人以上に上り(文献によって差はある)と兵器として使われた数よりも多かった。







    



ドイツ中央部の自然要塞ハルツ山地のノルトハウゼンのトンネル内で、V-2ロケットは製造されていた。V-2ロケットは当初ペーネミユンデで製造されていたが、1943年8月にイギリス軍に空爆されたため、途中からノウトハウゼンに移動した。








V兵器(V-1巡航ミサイル、V-2弾道ミサイル)の生産は機密プロジェクトだったために、ドイツ軍の燃料貯蔵設備として使用されていたトンネルを拡張して地下工場とした場所で生産された。1943年8月、最初の奴隷労働者の一団107人が、約80km南東のプーヘンヴァル卜強制収容所から移送される。工場となるトンネル掘りのためである。


拡張工事は昼も夜も途切れる事なく爆破して行われ、その度に粉塵で常に5歩先が見えないほどであった。囚人達は、その後にトンネルを手作業で掘ったが、ナチス親衛隊(SS)が反乱を恐れたため、囚人に採掘工具を持たせることはなかった。このため、囚人達は、素手で掘らなくはならなかった。


アルトゥール・ルドルフ(Arthur LouisHugo Rudolph)は、この地下奴隷労働工場の主任を任されていた。ロケットエンジン組み立ての専門家で、1934年からずっとフォン・ブラウンの元で働いていた。戦後、米国に渡った後、米国のミサイル計画及び宇宙ロケット計画に従事する。MGM-31 パーシング弾道ミサイルや、サターンVロケットの父の一人として知られている。


地下工場の囚人(フランス人・ポーランド人・ロシア人等の捕虜外国人、ユダヤ人)は、週7日12時間交代で、V-2ロケットを組み立てた。最初の2か月が終わる頃には、狭い地下空間で働き、暮らす者の人数は、8000人まで膨れ上がった。


トンネル内には、新鮮な空気、換気装置、水、十分な明かりもなかった。労働者の寝る場所は、トンネル内の木製の二段ベッド。洗面設備も衛生設備もない。トイレは樽を半分に切ったもので代用された。劣悪な環境で、ある者は飢え、ある者は赤痢や胸膜炎、肺炎、結核等の病気で、ある者は炎症に苦しみ、囚人は次々と死んでいった。


工業用アンモニアで肺がただれて命を落とす者、担がされたロケット部品の重さで圧死する者も居たが、誰が死んでもすぐに代わりの者が送られてきた。トンネルに入って行くのは、人間と機械部品。出ていくのは、ロケットと死体だった。


作業が遅い囚人は、容赦なく殴り殺された。反抗すれば、鉄輪刑か絞首刑が待っている。戦後に戦争犯罪捜査官が推定したところによると、ノルトハウゼンのトンネルに連行された6万人の内、約半分は死亡している。


V-2ロケットの製造に奴隷労働者を使うことが重要だったのは、建設効率や生産性が高いというばかりでなく、V-2が機密プロジェクトだったからだ。連合国に知られる訳にはいかなかった。1943年8月、ヒムラーはヒトラーに「第三帝国の労働力を全て強制収容所の囚人で賄えば、外部との連絡は一切排除できます。囚人たちは手紙さえも受け取りませんから」と話している。


1945年2月末、トンネル内工場の環境は、極限に達していた。耐え難い程の寒さの中で数千人が餓死しかけているのに、食料はほとんどなく、囚人達は水の様に薄いスープだけでかろうじて生きていた。死の行進によって、東方のアウシュビッツ収容所とグロス・ローゼン収容所から大量の囚人が到着したため、ドーラ=ノウトハウゼン収容所は定員を大幅に上回って過密状態に陥っていた。死の行進によって多くの者が到着時に死亡しており、ドーラ=ノウトハウゼン収容所の遺体焼却場も満杯であった。


それにも関わらず、フォン・ブラウンとドルンベルガーは、1日のV-2ロケット製造量を更に増やす計画が練られていた。フォンブラウンは1日に2、3機だったV-2ロケットの生産数を1日に200機まで増やそうと意気込んでおり、人数と規模を増やした。しかし、ロケットを製造するのは労働者であり、バタバタと死に続けた。


日を追う毎に作業は困難になり、それはV-2ロケットの品質にも現れはじめた。にわか作りのロケットは、ヨーロッパ上空の至る所で、バラバラに空中分解しはじめた。ドイツ北部の松林の中に設置された移動式発射台、ファーラル城周辺に配置されたものも含めて、発射台の上で、発射時にもV-2ロケットは爆発した。




V-2ロケットの失敗動画


事故があまりにも多発したため、囚人管理者達は妨害行為を疑った。そこで、囚人達にメッセージを送るために、公開絞首刑を行うことを決定する。多い時は、1日に57人が吊るされたと、戦後の戦争犯罪報告書には書かれている。処刑は電動クレーンを使って12人ずつ行われた。この絞首刑は、V-2ロケット製造ラインの真上で行われたため、労働者は仲間が悶え苦しみながら死ぬ姿を目のあたりにしなければならなかった。


あまりにも残忍な仕打ちに耐えかねて、ロシア人とウクライナ人の囚人グループが結束し、反乱を決行した。すると管理者とSSの看守達は、容疑者達を見せしめにすることにした。彼らは縛り首にされ、クレーンから吊り下がった遺体を1日放置された。ようやく遺体が降ろされたのは、工場主任のアルトゥール・ルドルフが部下のドイツ人技術者から、いつになったらクレーンを返してもらえるのかとメモを受け取った後のことである。






References
[1] ナチ科学者を獲得せよ! アメリカ極秘国家プロジェクト ペーパークリップ作戦 , アニー・ジェイコブセン (著), 加藤万里子 (翻訳)
[2] Нацистский «космос», https://narzur.ru/nacistskiy-laquokosmosraquo/
[3] Kleinbodungen. Moderadores: Lysychansk, Mod.Aux.4, https://elgrancapitan.org/foro/viewtopic.php?f=61&t=23612


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